そのかみは谷地の夏なりき

 布団に寝転がり地酒を呑みながら、私は「金色夜叉」を読んでいた。自分にとって少しだけ過度の高原トレッキング、温泉とビールで一息ついてからの控え気味の夕食、その後の日本酒と読書は至福の時だった。
 明治時代の雅俗折衷体の響は四肢五体に心地よく絡み沁みた。陶然という形容がよく似合う。夢と現の狭間を流れる幻境は乾(けん)と坤(こん)の箱から噴き出した妖煙の如く、互いに押しては引き刺しては抜いて瀬に渦を巻き、あるがままの自然とありもしない夢の領分を融け合わせて瀞にいざよう。己の魂は流れのままに放擲され、ためらいながらも救いを乞う。
 突然、左の手首の辺りにもぞもぞと何かが這うような気味の悪さを感じた。
「虫だ」
 そう思うと背筋がゾッとした。私は腕を激しく動かして、それを振り払った。奴は宙を舞い畳にすっと着地すると、一瞬私を斜に見てから、座布団の蔭にカサカサと素早く隠れた。足を六本に断ち双翅を付けたムカデ、見たこともないこげ茶色のクリーチャーだった。
 直ちに、私は隣に寝ていた女房を揺り起こし、非常事態を告げた。実は、子供のころ「カマキリ女」に追いかけ回されて以来、私は虫が極度に嫌い、白状すれば怖いのである。
「湿原の旅館だから虫がいても不思議はないでしょう。いつものことだけど、だらしないわね」
と言いながら、女房は紙コップと観光チラシを器用に使って虫を捕獲し外に放すと、消灯時刻はとっくに過ぎていると言わんばかりに電灯を消し、壁の方を向いて寝てしまった。
 豆電球の仄かな灯りの下で、私は酒をちびりちびりやった。暗すぎてもはや本は読めなかったが、先ほどの心地よさが暫くすると戻ってきた。今日の口語体からは失せてしまった中古の抑揚と拍子が……漸く。
 突然、肩を揺すられた。またもや
「虫だ」
 とっさにそう判断すると、私は手足をばたつかせて立ち上がった。ところが、女房は静かに座っていて、人差し指を唇に当てて私を見てから、視線を窓に向けて言った。
「蛍」
 豆電球は消されていて暗かったが、一点の発光が窓の網戸に見えた。それは思ったよりも色が淡く、思ったよりも短い周期で点滅していた。後で聞いた話によると、これほど遅い時期の蛍はこの地域ではひじょうに稀だそうだ。今年の異常気象で偶然に生き残ってしまった、孤独な老蛍なのだろう。仲間の光が見えない暗闇に終焉の輝きを放っていたようだ。遠い目をしていたに違いない。
「海外赴任でヴァージニアに住んでいたころ、夏には毎晩家の庭に蛍の光が見えたのをあなたは覚えているでしょう。子供たち三人はまだ小さかった。すごく喜んでいたから、日本に帰ったら皆で蛍狩りに行こうって約束したわ。あれから、もう四十年も経ったのね。あの子達にも子供ができて、同じような約束をしたのかしら。だとしたら今度こそは皆で蛍狩りに行きたいわね。孫も一緒に」
 女房の語感が私に共感を促しているのか、遠い昔への自分自身の思いなのかをぼんやりと考えながら、それでも私は曖昧に答えただけで、残っていた酒を一息で飲み干すと、ごろりと横になった。
 暫くすると門松の針葉を分け出でるような寒風が私の頬を掠めた。はて、今は夏のはずなのに。床の間の落とし掛けの後ろにひそむ陰翳、子供のころに恐る恐る覗き見たことのある闇が下り、その中にぽつねんと正座し窓の外を見ている女房の姿が朦朧と浮かんだ。虚空の夜色にもはや蛍火はなかった。軒の先の宙を見上げる老婆は、束髪を結い茶微塵の小袖に黒の羽織を着た小さく色白き明治のハイカラな女、鏑木清方の絵だった。

令和二年八月二十二日