現成公案の風性常住について

 論文は推理小説ではないのだから、最初に種明かしをしなさいと大学では教えられる。話を結論から始めることは論文を書く基本的な技術の一つであり、科学の世界では常識である。ところが、科学という学問もなかった八百年の昔、猫またというもののけが夜な夜な人を襲っていた時分に、こういう現代的な筆づかいで哲学書を著した人物がいた。曹洞宗の開祖、道元である。
 正法眼蔵の難解さはよく知られている。意味が取れない語句のすぐ後に新たな難敵が潜んでいるので、私の勉強は遅々として進まなかった。それでも続けていくと、道元の理論が厳密であることがしだいに解ってきた。そうであるとしても、執筆は鎌倉時代で遥か昔であった。大和言葉と漢語の混淆から、言葉を選びだすだけでもかなりの艱苦があっただろう。さらに、この時代は平和といえる二十一世紀初頭の日本とは比べようもない。末法思想が世をむしばみ、多くの人々にとって死がひしと迫りくる此岸を逃れ、仏の世界である彼岸に渡るには念仏にすがる以外の道はなかったのである。道元は世の中をどのように看て、浩然の精神を保ち、正法眼蔵という無欠の理論体系を創ることができたのだろうか。
 以下で、道元の生きた時代を概観し、彼の思考パターンを正法眼蔵の一巻である現成公案から探る。師と僧が問答した「風性は常住」と「周からぬはない」を考察する。その前にひとつだけ述べておく。道元の書く手法については、増谷文雄氏がすでに次のように指摘している。「道元は、まず、その冒頭の一節において、ずばりと、そのいわんとするところを凝縮して語りいでる」(古鏡の解題、正法眼蔵、講談社学術文庫、2014)。
 累々たる死屍。群がる疾行餓鬼、禽獣、双翅の蛆。死者のミアズマ、生者の黄色いなみだ。水をも爛れさせる烈々たる火焔の気、あまてる神の降らす金粉の光。そして

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

作者鴨長明没、建保四年、享年不詳、おそらく六十二歳。十七年後、天福元年。中秋、刻のない夜。道元、三十三歳、現成公案を著す。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、寸尺の水にやどり、全月(ぜんげつ)も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

 釈迦の入滅後千年までの正法(しょうぼう)の時を過ぎると仏教は次第に衰え、教えは残るが、修行も悟りも実現できなくなる末法の時がやがて訪れる。これが末法思想であり、日本では平安時代の後期から鎌倉時代にひろく信じられていた。方丈記、玉葉、平家物語など諸本には当時の天変地異とその惨禍が克明に記録されている。鴨長明と道元はこの時代に生きていたのである。
 鴨川の河原は死体の遺棄場であった。屍蝋、獣油、くさき香を吸い込み、飢渇の主犯たる陽の熱素を吸収した川はゆるく流れ、濁っていた。たくさんの泡沫が浮かんでいた。暑くまばゆい夏の日差しの中、鴨川のほとりは片時でも耐えられるものではなかった。奔り去る鴨長明の網膜には、泡沫が曝す虹色の縞が恐恐として焼き付いていた。絶えぬ流れならば、流れてくれと彼は願ったにちがいない。
 森閑とした秋の夜、深草の興聖寺。空気はすこし冷え、色は匂わなかった。小さな池が混じりけのない冷たい水を湛え、月はそこにやどっていた。その容を揺らしたであろう波も泡も水面にはなく、月は凛とした円形(えんぎょう)であった。水も月も動かなかった。対岸の松の針葉のまっくろい影が月にせまっていたが、月は自らの光の圧力でこれを押し止めていた。道元は無表情で立っていた。
 同じ時分に世の乱るる瑞相を聞いていた二人ではあるが、その表現はあまりにも違っていた。以下で、鴨長明の描いた時代背景を心にとどめながら、道元の思想の一端をたどっていく。
 道元はおおよそ二十年かけて九十五巻の正法眼蔵を執筆した。初期のころの巻である現成公案は俗弟子楊(やなぎ)光秀に与えたものであり、弁道話のように衆にしめしたものではない。仏教者の悟りは、仏陀の正覚の原体験により定まったテーマに沿って行われる追体験である。このテーマを公案という。そして、悟りは修行者におのずと訪れるものであり、その直観の成立の機微を現成という。
 現成公案は禅宗の僧にはよく知られている「宝徹(ほうてつ)禅師と僧の問答」を載せている。増谷文雄氏の訳を下に引用する(正法眼蔵、講談社学術文庫、2014)。

 麻谷山(まよくざん)の宝徹禅師が扇を使っていた。そこに一人の僧が来って問うていった。
「風性(ふうしょう)は常住にして、処として周(あまね)からぬはないという。それなのに、和尚はなぜまた扇をつかうのであるか」
 師はいった。
「なんじはただ風性は常住であることを知っているが、まだ、処として周からぬはないという道理はわかっていないらしい」
 僧がいった。
「では、処として周からぬはないというのは、どういうことでありましょうか」
 その時、師はただ扇を使うのみであった。それを見て、僧は礼拝した。

 この問答は、次が肝要である。
1. 僧は「風性は常住」(風は常にある)と「周からぬはない」(風がない処はない)は同じであると考えていたが、宝徹禅師はそうではないと言った。
2. 僧はその違いを尋ねたが、師は答えずに知らん顔をして扇を使い続けた。
この問答のふつうの解釈は「悟りの実現は、理論よりも実践が大事である」、「常に学ぶことが必要である」などである。なるほど、へ理屈ばかりの問答をしていてもだめで、実際に経験しないといけないと言わんばかりに、師がだまって扇を使ったと考えれば、ポイント2はそのとおりである。では、理屈ばかりのポイント1はどうなのだろうか。
 常識的な判断では、「風性は常住」とその二重否定「周からぬはない」は同じことを意味する(次の段落を参照)。では、この明白な事実を認めなかった師の真意は何だったのか。すでに悟りに達している状態(已悟)の師は、まだ悟り以前(未悟)の僧に何かしらを教えようとしたのだろう。ここにその手がかりがありそうだ。一方、一見矛盾であり常識的には受け入れがたい宝徹禅師の主張を、道元はどう見たのだろうか。以下で、これらの疑問を解明する。
 最初に、二重否定の論理を簡潔に考察する。本稿は形式論理学の二重否定、つまり、命題(ϕ)の否定(!)の否定(!)は肯定である(ϕ = !!ϕ)に従う。二重否定(!!ϕ)は最初の命題ϕより豊かな内容を呈するとのヘーゲル弁証法は考慮しない。日本語はSOV言語であり、中国語はSVO言語であるから、中国語の二重否定「無処不周」(周からぬはない)を考察しよう。「無処不周」(!!ϕ)における否定!は「無」と「不」であるから、命題ϕは周(あまねかる)、第一否定!ϕは不周(あまねからぬ)である。命題ϕを真とすれば、!ϕは偽、!!ϕは真となる。しかし、「無処不周」の中に、わざわざ偽の主張「不周」(!ϕ)を持ち出すのにはそれなりの理由があるはずである。以下では、二重否定とは、直ちには受け入れがたいが真である命題ϕを主張するときのレトリックと捉える。ϕよりも、その否定命題!ϕの方が信じられやすそうな事象である場合、まず!ϕを提示し、次に「実は」と言って!ϕを否定すること(‼ϕ)により、所期の命題ϕが真であることを強調するのである。
 現成考案が悟りを主題としていることを考慮し、「風」を「修行」と仮定して話をすすめる。主張したい命題ϕは「風性は常住」であり、「周からぬはない」から二重の否定を除いたものでもある。つまり、「風性は常住」=「周(あまね)かる処」(ϕ)である。「処」を未悟と仮定すると、ϕは「悟るためには修行は必要である」となり、「処」を已悟としたϕは「悟った後に修業は必要である」となる。已悟・未悟にかかわらず、ϕと‼ϕは「修業がいる」、!ϕは「修業がいらない」を意味する。僧は、自分には修業がいるが、すでに悟っている師には修業はいらないと思い、「風があるのに、和尚はなぜまた扇をつかうのであるか」と尋ねたのである。未悟のϕは真であるが、已悟のϕは偽である――已悟の!ϕは真である――との判断であった。僧は、どちらの場合にも、二重否定の法則ϕ = !!ϕは成り立っているはずだと直感した。ところが、師は「風性は常住」(ϕ)に対する僧の考えを否定しなかったが、「周からぬはない」(!!ϕ)に対する僧の理解は不十分であると指摘した。当然同じだと考えていた二つの事柄(ϕ = !!ϕ)の片方だけが否定されたのであるから、僧は面食らったに相違ない。
 二重否定!!ϕが上で提案したテクニックであるという観点から、師の言を考察しよう。未悟の場合、命題ϕは「悟るためには修業はいる」である。否定命題「悟るためには修業はいらない」(!ϕ)が偽であることは明らかであるので、これをもう一度否定しても、その修辞的な効果は薄く、ここで二重否定をわざわざ用いる必要はない。已悟の場合には、「周かる処」は「悟った後に修業はいる」(ϕ)となり、僧が偽と判断したことから分かるように、容易には受け入れがたいような主張である。ところが、これの否定「周からぬ処」(悟った後に修業はいらない)(!ϕ)は僧だけではなく誰しもが信じてしまいそうであるが、道元によれば、これは誤りである。事実、弁道話では、禅修行の基本は修と証には区別がなく(修証一等)、悟りを得てからも修業は必要であると説かれている。処を已悟とした場合、「周からぬ処」(!ϕ)は修行者が陥りやすい陥穽であるため、話し手はあえて!ϕを提示し訂正する(‼ϕ)ことにより、聞き手を「周かる処」(ϕ)に振り向かせるのである。この考察により、二重否定「周からぬはない」(‼ϕ)は已悟の修行に重点を置いていると解釈できる。一方、「風性は常住」(ϕ)は未悟の修行にダイレクトに言及している。そこで、師は答えた。「なんじはただ風性は常住であることを知っているが、まだ、処として周からぬはないという道理はわかっていないらしい」と。「風性は常住」をわざわざ二重否定で言い換えている理由を、僧は見抜いていなかったのである。
 二者の見解をまとめる。未悟においても已悟においても、「風性は常住」(ϕ)は真であり、必然的に二重否定「周からぬはない」(‼ϕ)も真である。これが宝徹禅師の見解であり、正しい教えである。一方、僧は未悟においてはϕ(= ‼ϕ)は真であるが、已悟においてはϕ(= ‼ϕ)は偽と考えていた。已悟における僧の誤った解釈を指摘することが、宝徹禅師の役目であった。しかし、彼は「悟った後に修業はいらないことはない」と率直に言わないで、禅問答をしたのである。師はϕを未悟、!!ϕを已悟における命題として、僧のϕの見解は肯定し、!!ϕの見解は否定した。本来ならば、ϕと!!ϕは同じ土俵で対峙させなければならないが、場合を分けたため、師は二重否定の法則ϕ = !!ϕを破ってしまったのである(ϕ ≠ !!ϕ)。
 宝徹禅師が自分の不整合性(ϕ ≠ !!ϕ)を知らなかったはずはない。彼は教育的観点からこれを利用したのである。僧の命題ϕに関する見解は未悟と已悟において真と偽に分かれるが、二重否定の法則ϕ = !!ϕはどちらの場合でも成り立つと僧は考え、この無矛盾性(ϕ = !!ϕ)に満足していたのである。瑕疵の無い論理展開からくる幸福感は人の思考を同じトラジェクトリの上をぐるぐる回すので、往々にして思考が新しい航路に出帆するのを妨げる。二重否定「周からぬはない」の真意はシンプルな論理思考だけに終始していた僧が容易に捕まえられる風ではなかった。そこで、宝徹禅師は、「なんじは……」と、故意に矛盾の風(ϕ ≠ !!ϕ)を僧に送った。師の予想に違わず、僧はすぐさま反応し問いかえした。「では、処として周からぬはないというのは、どういうことでありましょうか」と。
 凡夫の実相に憑かれた目をしている僧には、悟りがおのずから現れ成就することはないと宝徹禅師は察知した。つまり、現成は訪れない。現成は与えるものではないから、言葉で導いてはいけない。これまで我々が展開してきた理論も値しない。悟りの実現には、実践からの経験が必要であることを僧に認識させる最善の方法は何であろうか。宝徹禅師は無言で扇を使い続けた。ここでの師の対応は心と体の切り離せない関係を示唆している。仏教には、肉体と心は別々にあるのではなく、その実体は一つであるという教えがある。これを身心一如(しんじんいちにょ)という。
 宝徹禅師の言にある不整合性(ϕ ≠ !!ϕ)は、彼が僧のϕを肯定し、!!ϕを否定したことに起因する。この不整合性はϕと!!ϕのどちらをも否定するか又は肯定すれば解消できる。現成公案では、宝徹禅師と僧の問答の引用のすぐあとに、道元は次のように自説を展開している(増谷文雄訳)。

つねにあるから扇を使うべきではない、扇を用いぬ時にも風はあるのだというのは、常住ということも知らず、風性というものも解っていないのである。

道元と宝徹禅師の教えは、未悟と已悟どちらの場合においても、ϕと!!ϕは真、!ϕは偽である。修業はどのような時でも必要なのである。僧の考えは未悟の場合には正しいことは明らかなので、道元は已悟「つねにある」に焦点を合わせた。「扇を使うべきではない」は!ϕ(修業はいらない)に対応すると考えられる。!ϕは偽であるが、僧の考えていたように!ϕが真ならば、ϕ(修業はいる)は偽になってしまう。そこで、道元は僧の「ϕは偽」は誤りであると上のように述べた。引用文の後半は「周からぬはない」(!!ϕ)ではなく、「風性は常住」(ϕ)に言及していることに注意が必要である。つまり、宝徹禅師によって僧の!!ϕはすでに却下されていたので、道元は僧のϕ(風性常住)を「解っていない」と退けたのである。その結果、已悟に関する僧の見解、ϕと!!ϕ、はどちらも否定された。未悟における二重否定の法則ϕ = !!ϕは初めから成り立っていたので、道元は、已悟においても、ϕ = !!ϕを有効にしたのである。潜んでいる矛盾(ϕ ≠ ‼ϕ)を解決せずに、師資の問答をそのまま自らの著作に載せることは、道元の本意でなかったのだ。
 鴨長明と道元は詩人であった。彼らは言葉を事もなげに選んで世の極みを綴った。情緒的に、理性的に。瘴気に満ちた無数の泡が浮かんで薫る瀞が鴨川にあった。夜になって、澄んだ池の水を見ても、道元は沼のような現を忘れることはできなかったはずだ。彼は現と、そして夢とも分かちたかったにちがいない。細るほどに身を削り、愚たるほどに心を張り、瑕のない完備な理論を創りあげ、なんとしても、道元は精神を彼岸に渡したかった。自己をわすれ、精神の彫琢だけでもせめての事と。


林 譲 平成30年4月15日