フェルメールの「真珠の耳飾りを付けた少女」について

 この絵の背景は黒一色。上方側面から光が差し込み、白い少女の顔とその赤い唇が浮か び上がっている。この絵は、まるで現代のポートレート写真のようである。
クローズアップ技法を用いて、被写体のモデルの訴えかけが、見る者に強く印象付けられる。
しかし、そうした絵画技法を超えて、この絵には、不思議な魅力が秘められている。
振り向いてこちらを見る少女の視線に思わずその場に立ち竦んでしまう。直ぐに、次の言葉が思わず口から洩れる。:
「君は、一体、何を話そうとしているの?」
口元を少し開いて、何を、こちらに語りかけているのだろうか?
絵の中の少女は、一体、誰に話しかけようとしているのか?
何時まで経っても、頭から離れない永遠の謎解きに人を誘い込む魔力がある。
この絵に永遠の魅力があるのは、絵を見る受け手によって多様な解釈が成り立つからではないかと思う。この少女が何を語っているのかは、絵を見る者の心の内面によって異なってくる。娘や、恋人や、妻など自分の身近の親しい者を思い浮かべて、それら親しい人、或いは懐かしい人が、自分に語った言葉を思浮かべるかもしれない。これは、受け手が女性の場合でも起こり得る(映画になった"the girl with a pearl earring"を書いたトレーシー・シュバリエのように)。フェルメールの場合ならば、自分の娘が、かつて、自分によく話しかけた言葉を想像しているかもしれない。フェルメールから娘への呼びかけに答えて、振り向きざまに、
「何? 今、何を仰ったの、お父様」かもしれない。
 絵を見る者によって、この少女が語る言葉とは、フェルメールの個人的な体験を超えて、
人の心の奥底に届く深遠な問いかけまでに昇華しているのではないかと感じられる。
見る者によって、その者に、最も思い出深く印象に残っている言葉、
自分に対して語られた言葉が自分にとって一体何を意味したのか、見る者の心の内面で改めて考えさせる霊感がこの絵にはある。

平成28年9月14日 山本 毅