菊池契月の「少女像」について

 「少女像」という題材は、絵画、写真等の作品では汎用される題材である。しかし、菊池契月の「少女」及び「友禅の少女」と初めて出会った時、これらの「少女像」は、他のルノアール等の少女像とは、まったく異質なものだと感じた。まず、第一に、この絵の斬新な構図に強烈な印象を受ける。こうした構図は「少女像」の分野では極めて稀であるし、このような姿勢の肖像画の前例を知らない。まことにみごとである。この絵の革新的な構図は、肖像画の主題に対して極めて、効果的に働いている。そして色がとても明るく強烈である。翌年の作品の「友禅の少女」においては、痛ましほど、緊張したその少女の姿は、凛とした高貴な気品を見事に表現している。この絵の少女の前に立つと、その峻厳なる気品に感銘を受け、身が引きしまる思いである。
 西洋絵画の「少女像」は、記念写真と同じで、わが子の姿を思い出に留めるため、親が画家に描かせるものが殆どである。この場合の「少女像」の少女は、あくまでも子供であり、大人が期待するあどけなさを売り物にする対象として描かれる。例えば、ルノアールの少女像は、大人の立場から見た愛すべき鑑賞物でしかない。人間として大人と対等のもの、或いは独立してある主題を訴える題材としては扱われない。しかし、菊池契月の「少女像」は、まったくそうではない。この少女は、子供、大人の区別などの次元を超えた天空に存在する。人間の理想とする美徳を表象する女神として描かれていると言ってもよい。これほどの気高い気品を感じさせる「少女像」が西洋にあるだろうか。私の知る限りでは思いつかない。少女とはまだ成熟した女ではない。中性的な存在でさえあるとも言える。であるからこそ、生身の人間を超越してある種の聖なるものを表象できる可能性を秘めている。それは決して、通常の人間の少女の持つあどけなさや幼さに由来する純粋さではない。清廉なるもの、気高い気品、豊かなる詩情、しなやかで自由な精神、美しいものへの憧れ、人間が理想として追い求める高貴な精神がこの2つの絵から次々と喚起される。菊池契月は、これらの「少女像」に、そうした人間の高い理想や美徳を託そうとしたのではないか。この2つの「少女像」を見て、そんな思いに憑かれてしまった。通常の生身の人間の少女を神格化してとらえるのは、日本人だけの感性なのだろうか。
 「少女」は、それ以前の作品にはない大胆な構図と鮮烈な色彩で、師匠から受け継いだ四条派の伝統を守るだけではなく、それを超えた新しい独自の世界を確立しようとするもので、当時41才の菊池契月の意気込みを感じさせる作品である。菊池契月は、奈良、飛鳥時代の絵画から影響を受け、歴史上の女性を主題にした優雅で豊饒な美人画で名を成した画家である。現代の女性を描いた作品は、上記「少女像」を含めて4点しかない。しかし、私は、この現代の女性を描いた「少女像」にどうしても心ひかれる。この絵を見終わって家に帰る電車の中で、「自分にとって独自の世界とは一体何なのだ、自分は、もう一度原点に戻らねばならない」と、わが身を叱咤する思いに駆られた。

平成28年9月14日 山本 毅